大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福井地方裁判所 昭和41年(モ)321号 判決

債務者申立人 北陸製薬株式会社

債権者被申立人 ツエー・ハー・ボエリンゲル・ゾーン

主文

本件仮処分取消申立を却下する。

申立費用は債務者の負担とする。

事実

債務者訴訟代理人等は

債権者被申立人、債務者申立人間当裁判所昭和四〇年(ヨ)第一七八号仮処分申請事件について、当裁判所が同年一一月一一日なした仮処分決定は保証を立てることを条件としてこれを取消す。申立費用は債権者(被申立人)の負担とする旨の判決並びに仮執行の宣言を求めその理由として

債権者は同四〇年一一月一一日付の「債務者(申立人)は別紙物件目録〈省略〉記載の薬剤を製造し、販売し、又は販売のため展示してはならない。債務者の前記薬剤(包装、未包装を含む)に対する占有を解き債権者の委任する福井地方裁判所執行吏の占有に移す。右執行吏は前項の趣旨を適当な方法で公示しなければならない」旨の仮処分決定を得て、同月一三日之を執行した。しかしながら右仮処分決定については次のような特別事情が存する。即ち

第一(1)  本件仮処分の本案訴訟における争点は債務者が同三八年九月二五日特許庁に提出した特許願における臭化ブチル・スコポラミン(以下本件薬剤と略称する)の製造法(臭化正ブチルに之と当量のスコポラミン塩基を有機溶媒を用いないで作用させる)が、債権者の特許第二〇四二六四号の特許請求の範囲(臭化正ブチルの過剰とスコポラミン塩基を有機溶媒を用いて作用させる)に属するか否かにあるが、此の点についての争の判断は、当庁に係属する本案訴訟の結果を俟つとして、債権者の本件仮処分の被保全権利は事後において金銭的補償を得ることによりその終局の目的を達することができる性質の権利である。現行特許法は特許権侵害の場合の損害額の立証について新たに第一〇二条を設けたからその立証は極めて容易となつた。債務者側の薬品の製造、販売数量並びに利益を押えることは何人でも容易になしうるし、債務者はそれに協力する用意がある。

(2)  債務者は特許法第七一条に基き特許庁に対し本件に関連して判定を請求し、此れに対し債権者も反対意見を主張して争つたが、同四一年四月八日「債務者の製造法の有機溶媒を用いない方法は債権者所有の第二〇四二六四号特許発明の技術的範囲に属しない」旨の判定がなされた。右判定は法律的拘束力はないが最も権威ある鑑定的効力を有するものであつて右事実は特別事情に当ると共に事情変更による取消の事由にも該当する。

(3)  債務者会社は大正七年創立以来個人経営の医薬品メーカーとして発展し同三四年一〇月三日会社組織に改め現在資本金六、〇〇〇万円従業員三五〇余名を数える会社である。本件薬剤は債務者会社の独自の製造法によるもので医療機関、代理店等からも非常な好評をもつて迎えられ、生産量も一ケ月六〇〇万円に上るに至つた。そこで債務者は同四〇年九月三〇日訴外ミツバ貿易株式会社との間に、スコポラミン塩基の原料である臭化水素酸スコポラミン一二〇瓩を金二、〇六四万円でイスラエル国「ブランテツクス」社から同四一年四月末までに輸入買受の契約を締結したが、本件仮処分によりその履行を一時猶予してもらつている(一部は履行を受けたが)実情にあり右事実は日本商社の国際的信用にかかわるのみならず国内的にも債権者が債務者の得意先である代理店、販売所に本件仮処分の宣伝をしたためその信用を著るしく棄損せられた。

又債権者は本件薬剤を訴外田辺製薬株式会社との特約により国内の一手販売をしておりその月商は一五、〇〇〇万円乃至二〇、〇〇〇万円におよぶものであるのに反し、債務者の当該薬品の月商は僅か六〇〇万円に過ぎない。仮りに本件仮処分を取消しても右訴外会社の巨大な資本力と優れた宣伝力によつて販路は益々拡張されるのは必定であり、債務者の当該薬品がその市場を独占するということは先づありえないし、債権者の特許権が同四三年一一月三〇日に終了することとも考え併わせればそれによつて生ずるかも知れない債権者の損害は極めて微々たるものである。

それに引換え債務者の月商六〇〇万円(荒利益三〇〇万円営業経費を引いた利益一〇〇万円)に対する年間利益一、二〇〇万円は資本金六、〇〇〇万円に対し利益率は二〇%で之を失うことは債務者にとり異常な損害であつて債務者が受ける右有形、無形の損害は、債権者が通常蒙る損害より著るしく甚大である。

よつて債務者において保証を立てることを条件として前記仮処分の取消を求める次第である。

第二債権者の本案前の抗弁に対し、本案前の抗弁事実は否認する。仮処分異議事件(当庁昭和四〇年(モ)第五一六号)における債務者主張の特別事情の抗弁は撤回した。仮処分異議事件においては被保全権利の存否と、保全の必要性が審理の対象となるに反し、特別事情に基く仮処分取消請求事件においては右は全く審理の対象外であつて、特別事情の有無についてのみ審理判断されるべきであるから、両者は同時に別件として併存することもできるし、一件として取消の事由を抗弁として主張することもできる。

又仮処分事件においては、審理が如何なる段階にあるかを問わず申請、抗弁、その他の申立を相手方の同意を要せずして取下げ若しくは撤回することができるのであつて、撤回した特別事情の抗弁を別個に取消申立の事由とすることは何ら違法ではない。疏明〈省略〉

債権者訴訟代理人等は

第一本案前の抗弁として、債務者は係属中の前記仮処分異議事件において既に本件申立にかかる特別事情と同一の事情を抗弁として、主張且つ立証しているから同一事実に基く本件取消申立は訴の利益を欠き、許されないと共にかかる特別事情の抗弁は金銭の支払請求訴訟における反対債権による相殺の抗弁と類似し異議訴訟における既判力の問題としては特別事情の抗弁について民事訴訟法第一九九条第二項が準用される。

したがつて本件取消申立は権利保護の利益を欠くと共に二重起訴の禁止にふれるものである。債務者は前記仮処分異議事件における特別事情を理由とする抗弁を撤回して別個の取消申立の理由としたが、右抗弁の撤回は一度主張した以上右法規に何らの影響を及ぼすものではない。

よつてただちに却下を求める。

第二本案に対する答弁として主文同旨の判決を求めその理由として債務者主張の仮処分決定がなされそれが執行されたこと、特許庁において債務者主張内容の判定があつたこと債務者が医薬品メーカーであること、臭化ブチル、スコポラミンを製造販売したことは認めるがその余は争う。即ち

(1)  本件仮処分の被保全権利が事後的救済として金銭的補償をもつて償うことが可能であるとしても債権者の損害額の立証は極めて困難である。

債務者会社製造の本件薬剤は錠剤として或は注射液として又他の薬剤の複合剤の形をとつており、しかも全国四〇数ケ所の販売会社を通じ種々の価格をもつて医療機関に販売されているのであるからこれをことごとく追及し、詳細に損害額を計算し立証することは至難である。又債権者は債務者に対し本件特許権侵害を理由に一〇、八〇〇万円の損害賠償の訴を提起(当庁昭和四一年(ワ)第二九号)しているが、若し本件仮処分が取消されればその損害額は右金額に数倍するものとなる。

資本金六、〇〇〇万円月商一五、〇〇〇万円程度の債務者会社が現実問題として右金額を賠償することは不可能であつて結局金銭的補償の可能性はないと云わざるをえない。

(2)  更に仮りに本件仮処分が取消された場合両当事者製造の本件薬剤が市場に出回ることになるが、両製品は区別なく取扱われることになり、債務者製造の本件薬剤を主成分とするブチルパン製剤が薬価基準に収載された今日医療機関への納入価格の遙かに安い債務者の「ブチルパン」によつてたちまち市場を独占されてしまうことは必定であつて債権者の被る損害は計り知れないものがある。債権者会社は本件薬剤を主力製品とし、その月商は一五、〇〇〇万円乃至二〇、〇〇〇万円、総売上高において占める割合は三〇乃至四〇%に上つている。これに反し債務者会社の月商は一五、〇〇〇万円であるが、ブチルパン製剤のの月商は約六〇〇万円であつて僅かに四%を占めるに過ぎない。

しかもその製造設備は法廷に持ち込める程度の小規模なもので多額の設備費をかけた訳でもない。結局本件仮処分が取消された場合に債権者の蒙る莫大な損害に比すれば債務者のそれは極めて微々たるものであつて民事訴訟法に云う特別事情に該当しない。

(3)  前記特許庁の判定は何等の法的拘束力なきものであつて事情変更又は特別事情に該当する事柄ではない。

疏明〈省略〉

理由

一、先づ債権者主張の本案前の抗弁について考えてみるに仮処分異議事件が係属中に同一仮処分の取消を求めて別個の訴訟で特別事情に基く取消申立が許されるか否かについては見解が分れるところであるが、仮処分異議の申立は口頭弁論の開始と判決に基く仮処分決定の当否の審判を求める申立であり、特別事情に基く取消申立は仮処分決定の当否の判断には触れることなく単に仮処分決定の効力を存続せしめることが公平の原則の見地から保証を立てしめてもなお正当であるか否かについて審判を求める申立であつて、両者は夫々存在理由を異にし、民事訴訟法上も仮処分命令に対する不服申立方法として異議のほかに特別事情による取消申立を認めている点を考慮すれば異議訴訟における認可判決の確定までは債務者は特別事情による取消事由を異議訴訟の抗弁事由として主張するか(両者共に仮処分決定の取消を求める点において一致するが故に)又は別個に特別事情による取消訴訟で主張するかの選択権をもつと解され両者は同時に併存しうると解するのが正当である。

しかして本件の場合の如く一旦異議訴訟において主張立証した特別事情に基く抗弁を撤回し別個に取消申立の事由として主張できうるかの問題であるが右抗弁が異議訴訟において審理され、判決が確定した後であれば既判力が生ずることも考えられないではない(従つて同一事実に基く特別事情による取消申立は許されないことになる)が、審理中である本件の場合においては右と同一視することはできないのである。前記の如き両者の相異から一般に取消訴訟は取消事由の存否を審理すれば足り異議訴訟のように被保全権利や保全の必要性の存否を審理する必要がないから、訴訟審理が早いと考えられている実状も又無視することができず、仮処分事件は緊急を要する性質のものであり前記の如く両者は併存しうるとする見解に立つ限り本件の場合を否定的に解する理由は見当らない、よつて債権者の本案前の抗弁は理由がなく採用できないのである。

二、次に債権者の損害を事後的に金銭補償によつて満足せしめうるか否かについては、右仮処分の被保全権利は他人が債権者の右特許権を侵害した場合にその侵害行為の差止を請求する権利であつて右は事後において金銭的補償を得ることにより、その終局の目的を達することができる性質のものであると一応は云いうるが、成立に争いのない甲第一一乃至第一三号証の各一、二及び官署作成部分につき争いなき甲第一四号証の一、第一五号証の二、第一七号証の二、弁論の全趣旨によつて真正に成立したと認められる甲第一四号証の二、第一五号証の一、第一六号証、第一七号証の一及び乙第一号証によれば債務者会社は国内相当数の個所において本件薬剤を主成分とする「ブチルパン」「複合ブチルパン」の販売網をもち、その総売上げは債務者も認める如く、月商六〇〇万円に達していることが認められる。しかも前記の甲第一四ないし第一七号証の各一、二並びに弁論の全趣旨によつて真正に成立したと認められる甲第一八号証の一、二及び乙第二号証によれば債務者会社製造の「ブチルパン薬剤」と債権者会社製造の「ブスコパン薬剤」とは共に本件薬剤を主成分とする医薬品であつて同性質のものであるが医療機関が購入する価格の点において、債務者の「ブチルパン薬剤」は債権者の「ブスコパン薬剤」に比し相当に低廉であつて需要率が非常に高いことが認められる。してみると本件仮処分を取消した場合債務者の「ブチルパン薬剤」の売上げとそれに伴う利益が相当飛躍的に伸びることが予想される反面債権者の「ブスコパン薬剤」がそのため圧迫をうけ、その売上及び利益は右に比して減少することが容易に予想されるのである。その結果仮りに右が債権者の特許権を侵害するものとして債務者に損害賠償を請求した場合損害額の立証が甚だ困難とならざるをえない。

なぜならばいわゆる利益比較説によるとしても債権者の特許権が侵害された以後の利益率の減少がすべて債務者の侵害行為の結果であるとの立証が困難であるからである。

特許法第一〇二条一項の推定も前記事情にある場合は債務者の得た利益を債権者において悉く把握することは容易なことではない又同条第二項によつても債権者の全損害額が償われるか否か甚だ疑問である。してみると特許権に基く差止請求権は抽象的には金銭的補償が可能であると云つても右の如く損害額の立証が困難である本件の場合においては、保証を立てしめて本件仮処分を取消したとしても右保証は現実には債権者の損害補償のための担保とはなりえないのである。よつて右の如く損害額の立証が著るしく困難である場合は仮処分を取消すべき特別事情があるものと云うことはできず此の点において債務者の主張は採用できないのである。

三、債務者が仮処分により普通うける損害よりも多大の損害を被る事情がある場合は特別事情があると云いうるのであるが、成立に争いのない甲第二六号証及び弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第三号証によると、債務者会社が「ブチルパン薬剤」を販売したのは最初昭和三九年一一月頃であつたがその後一旦中止して再び同四〇年五月頃から本件仮処分命令が出される同年一一月一一日頃までであつたこと、右「ブチルパン薬剤」の売上げは債務者会社の総売上の四%であること、債務者会社は他に百数十種類の医薬品を製造販売していることが夫々認められる。してみると債務者会社の存亡が右「ブチルパン薬剤」の製造販売にかかつていると云う程のことではなく、前記の乙第二号証によつて認められる債権者会社のそれ(ブスコパン薬剤は総売上の三〇乃至四〇%を占める)に比すればなお損害は少く又本件仮処分を取消した結果債務者会社の受ける得べかりし利益(予想される損害)は大なるものであつても、その反面債権者会社の受ける不利益も又右に匹敵するものであつて債務者会社が買入れた本件薬剤の原料が仮処分のため受領できない事情を考慮してもなお仮処分を取消すべき特別事情があるものと云うことはできないのである。

よつて右主張も又理由がない。

四、次に特許庁の右判定の効力が何らの法的拘束力をもつものでないことは通説的見解であつて裁判所は右判定の結果を専門家の鑑定意見として証拠資料となしうるにすぎない。

勿論特定の発明が既存の特許発明の技術的範囲に属するか否かの判断は高度の専門的知識を必要とし、これについての専門家の意見は充分尊重さるべきものであるが、特許訴訟においては他にこれと異る専門家の意見が出ることが容易に予想され(現に前記仮処分異議訴訟には提出されている)本件は、両当事者の薬剤製造方法について微妙な点の差異についての争いであつて、右判定が特許庁において当事者関与の下になされた事情(しかしこれに対しては不服申立の方法はない)は充分に酌まれるべきものではあるがなお裁判所においては審理の一証拠資料として評価する以上には出ないのである。又仮処分を取消した場合前記の如き重大な結果をもたらすことを考え併わせるならば右判定の結果のみをもつて本件仮処分を全面的に取り消しうべき事情変更があつたものと解することは早計である。また右事情をもつて特別事情にあたると解することもできない。

元来仮処分が簡易迅速になされる暫定的措置であることは否めないが前記の各理由によつて債務者の特別事情若くは事情変更による仮処分取消の申立は理由がない。よつて本件申立はこれを却下することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 後藤文雄 高津建蔵 井上治郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例